万葉集入門
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現存する日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)

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昔老翁(おきな)ありき。号(な)を竹取(たけとり)の翁(おきな)と曰(い)ふ。この翁、季春(きしゆん)の月に丘に登り遠く望むに、忽(たちま)ちに羹(あつもの)を煮る九箇(ここのたり)の女子(をみな)に値(あ)ひき。百嬌儔(ひやくけうたぐひ)無く、花容匹(たぐひ)無し。時に娘子等(をとめら)老翁を呼び嗤(わら)ひて曰はく「叔父来(をぢきた)れ。この燭(そく)の火を吹け」といふ。ここに翁「唯唯(をを)」と曰ひて、漸(やくやく)に赴(おもぶ)き徐(おもふる)に行きて座(むしろ)の上に着接(まじは)る。良久(ややひさ)にして娘子等皆共に咲(ゑみ)を含み相推譲(あひゆづ)りて曰はく。「阿誰(たれ)かこの翁を呼べる」といふ。すなはち竹取の翁謝(こた)へて曰はく。「慮(おも)はざる外に、偶(たまさか)神仙(ひじり)に逢(あ)へり、迷惑(まと)へる心敢(あ)へて禁(さ)ふる所なし。近く狎(な)れし罪は、希(ねが)はくは贖(あが)ふに歌をもちてせむ」といふ。すなはち作れる歌一首并せて短歌

由縁:訳
昔、老人が居た。呼び名を竹取の翁と言った。この老人が、三月の頃に丘に登って遠くを眺めると、たまたま羹(スープのようなもの)を煮ている九人の少女に出会った。その様々な美しさは比べようもなく、花のような姿は類がなかった。時に少女らは老人を呼び笑いながら言った「お爺さんこちらへ来てくださいな。この焚火の火を吹いてくれないかしら」と。老人は「はいはい」と言って、ゆっくりと少女たちのもとに赴いて行って、少女たちの座に近づき交わって座った。ところがややしばらくして少女たちは皆、お互いに笑みを浮かべながらつつき合って「いったい誰がこの老人を呼んだの?」と言った。そこで竹取の翁が侘びながら「思いもよらずに、偶然に仙女たちに出逢い、思わず迷い心を起こして押さえることが出来ませんでした。馴れ馴れしくした罪は、どうぞ償いの歌で許して欲しい」と言った。そしてこの一首の長歌を作った。あわせて短歌も作った。


緑子(みどりこ)の 若子(わくご)が身には たらちし 母に懐(むだ)かえ 紐繦(ひむつき)の 平生(はふこ)が身には 木綿肩衣(ゆふかたぎぬ) 純裏(ひつら)に縫(ぬ)ひ着(き) 頸着(うなつき)の 童子(わらは)が身には 夾纈(ゆひはた)の 袖着衣(そでつけごろも) 着しわれを にほひ寄る 子らが同年輩(よち)には 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛(くし)もち ここにかき垂(た)れ 取り束(つか)ね 揚(あ)げても纏(ま)きみ 解(と)き乱(みだ)り 童子(わらは)に成(な)しみ さ丹(に)つかふ 色懐(なつか)しき 紫の 大綾(おほあや)の衣(きぬ) 住吉(すむのえ)の 遠里小野(とほさとをの)の ま榛(はり)もち にほしし衣(きぬ)に 高麗錦(こまにしき) 紐(ひも)に縫ひ着(つ)け 指(さ)さふ重(かさ)なふ 並(な)み重ね着(き) 打麻(うちそ)やし 麻積(をみ)の児(こ)ら あり衣(きぬ)の 宝の子らが 打栲(うつたへ)は 経(へ)て織る布 日曝(ひさらし)の 麻紵(あさてづくり)を 信巾裳(しきも)なす 脛裳(はばき)に取らし 支屋(いへ)に経(ふ)る 稲置丁女(いなきをみな)が 妻問(と)ふと われに遣(おこ)せし 彼方(をちかた)の 二綾下沓(ふたあやしたぐつ) 飛ぶ鳥の 飛鳥壮士(あすかをとこ)が 長雨禁(ながめい)み 縫ひし黒沓(くろぐつ) さし穿(は)きて 庭に彷徨(たたず)み 退(そ)け勿(な)立ち 障(さ)ふる少女(をとめ)が 髣髴聞(ほのき)きて われに遣(をこ)せし 水縹(みはなだ)の 絹の帯を 引帯(ひきおび)なす 韓帯(からおび)に取(と)らし 海神(わたつみ)の 殿(との)の蓋(いらか)に 飛び翔(かけ)る すがるの如き 腰細(こしぼそ)に 取(と)り飾(よそ)ほひ 真澄(まそ)鏡 取り並(な)み懸(か)けて 己(おの)が顔 還(かへ)らひ見つつ 春さりて 野辺を廻(めぐ)れば おもしろみ われを思へか さ野つ鳥 来鳴(な)き翔(かけ)らふ 秋さりて 山辺(やまへ)を行けば 懐(なつか)しと われを思へか 天雲(あまぐも)も 行き棚引(たなび)ける 還(かへ)り立ち 路(みち)を来(く)れば うち日さす 宮女(みやをんな) さす竹の 舎人荘子(とねりをとこ)も 忍(しの)ぶらひ かへらり見つつ 誰(た)が子そとや 思はえてある かくの如 為(せ)らえし故し 古(いにしへ) ささきしわれや 愛(は)しきやし 今日(けふ)やも子等に 不知(いさ)にとや 思はれてある かぬの如 為(せ)らえし故し 古(いにしへ)の 賢(さか)しき人も 後の世の 鑑(かがみ)にせむと 老人(おいひと)を 送りし車 持ち還(かへ)り来し 持ち還り来し

巻十六(三七九一)
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赤子の若様だった頃には、たらちねの母に抱かれ、紐繦に包まれた幼子の頃には木綿の肩衣(袖なし服)にすべて裏を縫い付けて着、髪がうなじに垂れるほどの子供の頃には、しぼり染めの袖付き衣を着ていた私だったが、匂うようなあなたたちと同じような年の頃には、巻貝の腸のように黒い髪をりっぱな櫛で、ここに長く梳(す)き垂らし、取り束ねて揚げて巻いたり、解き乱したり、童子髪にしたりしたものだ。丹色をさした色懐かしい紫の綾織り衣で、しかも住吉の遠里の小野の榛で美しく彩った衣に高麗錦を紐として縫いつけて、それを指したり重ねたりして、何重にも重ねて着たよ。打ち麻の麻積の家の子や、美しい衣の宝の家の子らが練り上げ、何日もかかって織り上げた布や、日に曝した麻の手作りの布を幾つも重ねた脛裳につけて、幾日も家に篭る稲置の娘が求婚する目的で私に送ってきたものだ。彼方の二綾の靴下を履き飛ぶ鳥の飛鳥の男が長雨の間をこもって縫った黒沓を履いて私は少女の庭に佇んだものだ。少女の親が、帰れ!そんなところに立つな!と言ってその少女に逢うことを妨げる。逢うことの叶わない少女がほのかに私のことを聞いて送ってくれた薄藍色の絹の帯を引き帯のように韓帯にして身に着け、海の神の宮殿の屋根を飛び翔ける蜂のように細い腰につけて飾り、美しい鏡を取り並べて自分の顔を何度も見ながら、春になって野辺をめぐれば、私を面白く思ってか野の鳥が近くへやって来ては鳴きて飛び交う。秋になって山辺を行けば懐かしいと私を思うからか天雲も行きたなびいたことだ。帰ろうと道を歩いて来れば日の輝く宮殿の女たちも、竹の根が伸びる舎人の男たちも、さりげなく振り返り見て、どこの子だろう?と思われたものだ。このようにされて来たから昔は華やかだった私は、いとしくも今日のあなたたちに「どこの誰だろう」と思われているのだろう。このようにされて来たから昔の偉い人も後の世の鏡になるようにと、老人を運んだ車を持ち帰って来たことだ。持ち帰って来たことだ。
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この歌も万葉集巻十六の有名な歌で、翁と仙女たちによる歌物語のその冒頭に置かれた一首です。
一応、「竹取の翁」が作者であるという形を取っていますが、実際にはこの歌からつづく翁と仙女たちの歌のすべてを別の作者が作り出したものなのでしょう。

歌の前に、長い由縁を書いた題詞がつけられていますが、それによると昔、竹取の翁(おきな)と呼ばれた老人がいて、その老人が三月の頃に丘に登って遠くを眺めると、たまたま羹(スープのようなもの)を煮ている九人の少女に出会ったのだそうです。
少女らはその老人に「お爺さんこちらへ来てくださいな。この焚火の火を吹いてくれないかしら」と呼んだのだとか。
老人は調子よく「はいはい」と言って、少女たちのもとに行って、少女たちの座に近づき交わって座ったそうです。
ところがしばらくすると少女たちは皆、お互いに笑みを浮かべながらつつき合って「いったい誰がこの老人を呼んだの?」と言ったのだとか。
そこで竹取の翁が侘びながら「思いもよらずに、偶然に仙女たちに出逢い、思わず迷い心を起こして押さえることが出来ませんでした。馴れ馴れしくした罪は、どうぞ償いの歌で許して欲しい」と言って、そしてこの一首の長歌と、あわせてあとの二首の短歌を作った、とあります。

まあ、この由縁だけ読むと、仙女たちが実際に翁を呼んだのか、あるいは翁が勝手に仙女たちのもとに行ったのか、どちらなのか分からなくなってしまいますが、そこはあくまで作り物の物語なので深く追求しても仕方がないのでしょう(笑)
一応は、仙女の誰かが火を吹いて欲しくて呼んだだけなのに、そのまま翁が居座ってしまって仙女たちから邪魔者扱いをされ始めたと解釈しておきましょうか。
そんな、仙女たちに償いの歌として翁が詠ったのがこの長歌な訳ですが、その内容は…

「赤子だった頃には母に抱かれ、幼子の頃には木綿の肩衣(袖なし服)にすべて裏を縫い付けて着、髪がうなじに垂れるほどの子供の頃には、しぼり染めの袖付き衣を着ていた私だったが、匂うようなあなたたちと同じような年の頃には、巻貝の腸のように黒い髪をりっぱな櫛で、ここに長く梳(す)き垂らし、取り束ねて揚げて巻いたり、解き乱したり、童子髪にしたりしたものだ。」と、自らが赤子だったころや幼いころからの様子を語り出します。

そして話はさらに翁が青年だった頃に進んで「麻積の家の子や、宝の家の子らが練り上げ、何日もかかって織り上げた布や、日に曝した麻の手作りの布を幾つも重ねた脛裳につけて、幾日も家に篭る稲置の娘が求婚する目的で私に送ってきたものだ。」と、稲置の娘から求婚された恋の思い出を語ります。

「私は少女の庭に佇んだものだ。少女の親が、帰れ!そんなところに立つな!と言ってその少女に逢うことを妨げる。」とは、この当時の恋愛が男が女の家に通う形であったことをよく表していますね。

さらに、「春になって野辺をめぐれば、私を面白く思ってか野の鳥が近くへやって来ては鳴きて飛び交う。秋になって山辺を行けば懐かしいと私を思うからか天雲も行きたなびいたことだ。帰ろうと道を歩いて来れば日の輝く宮殿の女たちも、竹の根が伸びる舎人の男たちも、さりげなく振り返り見て、どこの子だろう?と思われたものだ。」と、自分のモテ期を自慢げに詠っています。

そして、「このようにされて来たから昔は華やかだった私は、いとしくも今日のあなたたちに、どこの誰だろう?と思われているのだろう。このようにされて来たから昔の偉い人も後の世の鏡になるようにと、老人を運んだ車を持ち帰って来たことだ。持ち帰って来たことだ。」と、歌を締めくくっています。

むかしは華やかさで「どこの子だろう?」と思われていたのが、いまでは邪魔な老人として「どこの誰だろう?」と仙女たちに思われている皮肉を詠った訳です。
最後の「老人を運んだ車を持ち帰って来たことだ。」とは、孝子伝にある原穀が、祖父を乗せて捨てに行った手車を「父を捨てるときにも使うから」と言って持ち帰って、祖父を捨てることを命じた父を諫めた逸話のことですね。


つまりは、「いまは華やかなあなたたちも、いつかは私のように年老いてしまうのですよ」と諭している訳です。
まあ、取りようによっては、償いの歌と言いながら説教を始める困ったお爺さんと言った感じにも読めますが、この歌の場合は素直に「まだ若い仙女たちのために素晴らしい教えを与えてあげるための歌」と解釈するのが正解だと思います。
「年寄りを邪魔者にすると、いつかあなたたちも同じように扱われますよ」と教えてあげている訳ですね。


ちなみに、この歌の由縁を読んで、みなさんもすぐにあのかぐや姫で有名な「竹取物語」を連想されたかと思いますが、この歌の「竹取の翁」が竹取物語の竹取の翁(讃岐造)のモデルになったとも云われています。
「竹取物語」はさらに後の平安時代に作られた物語ですが、あの竹の中からかぐや姫を見つけたお爺さんが、万葉集では仙女たちに出逢ってこのような歌を詠っていると思うと、ちょっと楽しくなりますよね。


竹取翁ゆかりの讃岐神社(奈良県広陵町)。
讃岐神社は広陵町の竹取公園のすぐ南にあります。



この万葉集巻十六(三七九一)の歌に出て来る竹取の翁は、後の平安時代に作られた竹取物語の登場人物の竹取の翁のもとになったとも云われています。
竹取物語において、竹取の翁はその名を「讃岐造(さぬきのみやつこ)」とされ、その出身部族である讃岐氏は、持統-文武期に朝廷に竹細工を献上するために讃岐国(さぬきのくに)※1の氏族斎部(いちべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだものだそうです。

おなじく、竹取物語のかぐや姫の五人の求婚者である貴公子たちが、万葉集の一時代である持統期末期から文武期初期にかけての朝廷の中心に居た実在の人物に比定されることも、この巻十六(三七九一)の歌から始まる一連の連作との関係を感じさせてくれて興味深いものがありますよね。

※1:讃岐国は現在の香川県のこと。



讃岐神社縁起。



讃岐神社の境内やその周辺には、いまも真竹や孟宗竹などの竹が群生しています。


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万葉集巻十六の他の歌はこちらから。
万葉集巻十六


万葉集書籍紹介(参考書籍)
万葉集(1)〜〜(4)&別冊万葉集辞典 中西進 (講談社文庫) 定価620円〜〜1020円(税込み)
県立万葉文化舘名誉館長でもある中西進さんによる万葉集全四冊&別冊万葉集辞典です。
万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。
他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。

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