万葉集入門
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日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)

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沈痾自哀(ちんあじあい)の文  山上憶良

竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、朝夕に山野に佃食(でんしよく)する者(ひと)すら、猶(な)ほ災害無くして世を渡るを得(え)〔常に弓箭(ゆみや)を執り六斎(りくさい)を避けず、値(あ)ふ所の禽獣(きんじゆ)、大きなると小(すこ)しきと、孕(はら)めると孕まぬとを論(い)はず、並(とも)に皆殺し食(くら)ひ、此(こ)を以(も)ちて業(なり)とする者(ひと)を謂(い)ふ〕 昼夜に河海に釣漁(てうぎよ)する者(ひと)すら、尚(な)ほ慶福ありて俗(よ)を経(ふ)るを全(また)くす。〔漁夫、潜女、各勤むる所あり、男は手に竹竿(さを)を把(と)りて能く波浪(なみ)の上に釣り、女は腰に鑿籠(のみこ)を帯びて深潭(ふち)の底に潜(かづ)き採る者(ひと)を謂ふ〕 況(いは)むや、我胎生(たいしやう)より今日に至るまでに、みずから修善の志あり、曽(かつ)て作悪(さあく)の心無し。〔諸悪莫作(まくさ)、諸善奉行(ぶきやう)の教(をしへ)を聞くを謂ふ〕 所以(かれ)、三宝を礼拝して、日として勤めざる無く、〔日毎に誦径(ずきやう)し、発露懺悔(ざんげ)するなり〕 百神を敬重(けいちよう)して、夜として闕(か)きたるは鮮(な)し。 〔天地の諸神等を敬拝することを謂ふ〕 嗟乎恥(ああはづか)しきかも、我何の罪を犯してか、この重き疾(やまひ)に遭へる。〔いまだ、過去に造る所の罪か、若(も)しは現前に犯す所の過(あやまち)なるかを知らず。罪過(さいくわ)を犯すこと無く何そこの病を獲(え)むを謂ふ〕
初め痾(やまひ)に沈みしより已来(このかた)、年月稍(やや)に多し。〔十余年を経(ふ)るを謂ふ〕この時に年は七十有四年にして、鬢髪斑白(ひんはつしら)け、筋力弱羸(つか)れたり。ただに年の老いたるのみにあらず、復(また)かの病を加ふ。諺(ことわざ)に曰(い)はく、「痛き瘡(きず)に塩を灌(そそ)き、短き材(き)の端(はし)を截(き)る」といふは、この謂(いひ)なり。四支動かず、百節皆疾(いた)み、身体太(はなは)だ重く、猶(な)ほ鈞石(きんせき)を負へるが如し。〔二十四銖(しゆ)を一両とし、十六両を一斤(こん)とし、三十斤を一鈞(きん)とし、四鈞を一石(じやく)とす、合せて一百二十斤なり〕布に懸(かか)りて立たたむと欲(す)れば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚(よ)りて歩まむとすれば、足跛(ひ)ける驢(うさぎうま)の比(ごと)し。吾、身已(すで)に俗(よ)を穿(うが)ち、心も亦塵に累(わづら)ふを以(も)ちて、禍の伏す所、祟(たたり)の隠るる所を知らむと欲(ほ)りして、亀卜(きぼく)の門と巫祝(ぶしゆく)の室とを往きて問はざる無し。若(も)しは実(まこと)、若しは妄(いつはり)、その教ふる所に随ひ、幣帛(ぬさ)を奉(まつ)り、祈祷(いの)らざる無し。然れども彌(いよ)よ苦(くるしみ)を増す有り、曽(かつ)て減差(い)ゆる無し。吾聞かく、「前の代に多く良き、医(くすりし)有りて、蒼生(あをひとくさ)の病患(やまひ)を救療(いや)しき。楡柎(ゆふ)、扁鵲(へんじやく)、華他(くわた)、奏の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隠居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちうけい)等のごときに至りては、皆是(みなこれ)世に在りし良き医(くすりし)にして、除愈(いや)さざる無し」といへり。 〔扁鵲、姓は奏、字(あざな)は越人、勃海郡(ぼつかいぐん)の人なり。胸を割(さ)き心を採りて、易(あらため)て置き、投(い)るるに神薬を以ちてすれば、即ち寤(さ)めて平(つね)なるが如し。華他、字は元化、沛国(はいこく)の焦※1(せう)の人なり。若し病の結積(かさな)り沈重(しづ)みて内に在る者(ひと)あらば、腸(はら)を刳(き)りて病を取り、縫ひて復膏(またかう)を摩(す)る。四五日にして差(い)ゆ〕 件(くだり)の医(くすりし)を追ひ望むとも、敢へて及(し)く所にあらじ。若し聖医神薬に逢はば、仰ぎ願はくは、五蔵を割刳(かつこ)し、百病を抄探(せうたん)し、膏肓(かうくわう)の奥処(おくか)に尋(たづ)ね達(いた)り、〔肓は鬲なり、心の下を膏とす。攻(をさ)むれども可(よ)からず、達(はり)も及ばず、薬も至らず〕 二豎(にじゆ)の逃れ匿(かく)るるを顕(あらは)さまく欲(ほり)す。〔晋の景公疾(や)めり、奏の医(くすりし)、緩見※2て還りしは、鬼のために殺さゆと謂ふべきを謂ふ〕 命根(いのち)既に尽き、その天年(よはひ)を終わすら、尚(な)ほ哀(かな)しと為す。〔聖人賢者、一切の含霊(がんりやう)、誰かこの道を免れむ〕 何(なに)そ況(いは)むや、生録(せいろく)いまだ半(なかば)ならずして、鬼の為に枉(よこしま)に殺さえ、顔色壮年にして、病の為に、横(よこしま)に困(たしな)めらゆる者をや。世に在る大患の、いづれか此より甚しからむ。〔志恠記(しくわいき)に云はく、「広平の前(さき)の大守、北海の徐玄方(じよげんはう)が女(むすめ)、年十八歳にして死(みまか)るその霊の憑馬子(ひようまし)に謂ひて曰はく、『我が生録を案(かむが)ふるに、当(まさ)に寿(とし)八十余歳ならむ。今妖鬼の為に枉(よこしま)に殺さえて、已(せで)に四年を経たり』といへり。この憑馬子に遭(あ)ひて、乃(すなは)ち更に活くるを得たり」といへるは是なり。内教に云はく「瞻浮州(せんぷしう)の人は寿百二十なり」といへり。謹みて案(かむが)ふるに、この数必(うつたへ)に此(こ)を過ぐるを得ぬにはあらず。故(かれ)、寿延経(じゆえんきやう)に云はく、「比丘(びく)ありき、名を難達(なんだつ)と曰ふ。命終る時に臨みて、仏に詣でて寿を請(こ)ひ、則ち十八年を延べたり」といへり。ただ、善を為(をさ)むる者(ひと)は天地と相畢(を)ふ。その寿夭(じゆえう)は業報(ごふほう)の招く所にして、その脩(なが)き短きに随ひて半(なかば)と為るなり。いまだこの算(さん)に盈(み)たずして、速(すみ)やかに死去(みまか)る。故(かれ)、半ならずと曰ふなり。任徴君(んちようくん)曰はく、「病は口より入る。故(かれ)、君子はその飲食(おんじき)を節(ただ)す」といへり。斯(これ)に由りて言はば、人の疾病(やまひ)に遭へるは、必(うつたへ)に妖鬼ならず。それ、医方諸家の広き説と、飲食禁忌の厚き訓(をしへ)と、知り易く行ひ難き鈍(おそ)き情(こころ)との三つの者は、目に盈(み)ち耳に満つこと由来(もとより)久し。抱朴子(はうぼくし)に曰はく、「人はただ、その当(まさ)に死なむ日を知らぬ故(ゆゑ)に憂(うれ)へぬのみ。若し誠に羽離(げつり)して期(ご)を延(の)ぶるを得べきを知らば、必ず将(まさ)に之を為(な)さむ」といへり。此(ここ)を以ちて観れば、乃(すなは)ち知りぬ、我が病は蓋(けだ)しこれ飲食の招く所にして、みづから治むる能はぬものか、と〕
帛公畧説(はくこうりやくせつ)に曰はく、「伏して思ひみづから励むに、かの長生を以(も)ちてす。生は貪(むさぼ)る可し。死は畏(お)づべし」といへり。天地の大徳を生と曰ふ。故(かれ)、死にたる人は生ける鼠(ねずみ)に及(し)かず。王侯なりと雖も一日気(いき)を絶たば、金(くがね)を積むの山の如くなりとも、誰か富めりと為さむか。威勢(いきほひ)の海の如くなりとも、誰か貴しと為さむか。遊仙窟に曰はく、「九泉の下の人は、一銭にだに直(あたひ)せじ」といへり。孔子の曰(のたま)はく、「天に受けて、変易(へんやく)すべからぬ者は形なり。命(めい)に受けて、請益(しやうやく)すべからぬは寿(とし)なり」とのたまへり。〔鬼谷(きこく)先生の相人書(さうにんしよ)に見えたり〕 故(かれ)、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。言はむと欲(ほ)りして言窮(こときは)まる。何を以(も)ちてかこれを言はむ。慮(おもひはか)らむと欲(ほ)りして慮り絶ゆ。何に由りてか之を慮(おもひはか)らむ。
惟以(おもひみ)れば、人の賢愚と無く、世の古今と無く、咸悉(ことごと)に嗟嘆(なげ)く。歳月競(きほ)ひ流れて、昼夜に息(や)まず。〔曽子曰はく、「往きて反(かへ)らぬは年なり」といへり。宣尼(せんぢ)の川に臨む嘆きもまた是なり〕 老疾相催(うなが)して、朝夕に侵(をか)し動(きほ)ふ。 一代の懽楽(くわんらく)はいまだ席の前に尽きぬに、 〔魏文の時賢(じけん)を惜しめる詩に曰はく、「いまだ西苑の夜を尽くさぬに、劇(にはか)に北望の塵と作(な)る」といへり〕 千年の愁苦は更(また)座の後に継ぐ。〔古詩に曰はく、「人生は百に満たず、何そ千年の憂(うれひ)を懐(むだ)かむ」といへり〕 若(も)し夫(そ)れ群生品類(ぐんせいひんるゐ)は、皆尽(かぎり)有る身を以ちて、並(とも)に窮(きはまり)無き命を求めざる莫(な)し。所以(かれ)、道人方士(だうじんはうし)の自(みづか)ら丹経(たんきやう)を負ひ、名山に入りて薬を合するは、性を養ひ神(こころ)を怡(やはら)げて、以ちて長生を求むるなり。抱朴子に曰はく、「神農(じんのう)云はく『百病愈(い)えず、安(いか)にそ長生を得む』といふ」といへり。帛公又曰はく、「生は好(よ)き物なり、死は悪しき物なり」といへり。若し幸(さきはひ)なく長生を得ぬは、猶(な)ほ生涯病患(やまひ)無きを以ちて、福(さきはひ)大きなりと為(せ)むか。今吾(われ)病の為に悩(なや)まされ、臥坐(ぐわざ)するを得ず。向東向西(かにかく)に為す所を知らず。福(さきはひ)無きことの至りて甚しき、すべて我に集まる。「人願へば天従ふ」といへり。如(も)し実(まこと)あらば、仰ぎ願はくは、頓(にはか)にこの病を除(のぞ)き、頼(さきはひ)に平(つね)の如くなるを得む。鼠を以ちて喩(たとへ)と為すは、豈愧(あには)ぢざらめや。〔已に上に見えたり〕

※1:「焦」は原文では「言」+「焦」。
※2:「見」は原文では「示」+「見」。

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沈痾自哀の文  山上憶良

ひとりで考えてみると、朝夕に山や野に狩猟して暮らす者ですら、なお殺生の罪を受けることなく生活することが出来き〔常に弓矢を手に持ち六斎日を避けず、目についた禽獣は、大きかろうと小かろうとと、子を孕んでいようと孕んでいなかろうと構わず、ともに皆殺し食べて、それを生業とする者を言う〕 昼夜に川や海に魚を釣る者ですら、なお幸せに世を暮らしている。〔漁夫も海女も、それぞれ仕事に励んでいる、男は手に竹竿を取って波の上で魚を釣り、女は腰に鑿や籠つけて深い海の底に潜り貝や海藻を採る者を言う〕 ましてや、私は生まれてから今日に至るまでに、みずから善を行う志を持ち、かつて一度も罪悪を自ら犯したことがない。〔悪行をなさず、善行を尊ぶ教えに従うことを言う〕 そこで、仏、法、僧の三宝を礼拝して、日々勤めに励み、〔日々径文を唱え、罪を告白し悔い改めようとしていることである〕 百の神を敬重して、ひと夜として慎まなかった日はない。 〔天地の諸神らを敬拝することを言う〕 ああ恥ずかしいことよ、私は何の罪を犯してか、このように重い病を得たのだろう。〔いまだ、過去の所業による罪か、もしくは今目の前に犯しつつある過ちによる罪なのかはわからない。しかし罪を犯すこと無くどうしてこのような病気になるだろう。そう思う気持ちを表す〕

初めて重い病を得てより今日まで、もう年月もひさしい。〔十数年も経っていることを言う〕 今年七十四歳にして、頭髪はすでに白く、体力は衰えている。ただに年が老いただけにあらず、この病がある。諺に曰う、「痛き傷に塩をそそぎ、短き木の端をさらに伐る」というは、まさにこのことなり。手足は動かず、百の節はみな痛み、身体ははなはだ重く、なお鈞石を背負っているかのようだ。〔二十四銖を一両として、十六両を一斤とし、三十斤が一鈞、四鈞を一石(じやく)とする。、合せて一百二十斤である〕布に寄り懸ってて立とうとすれば、翼折れたる鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすれば、足の萎えた驢馬のようだ。私は、身はすでに俗世に染み、心もまた俗塵に汚れているので、禍の原因、祟の潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師の門や神意を聞く者の門を叩いて回った。彼らの言うことは時として真実であり、時として虚妄であったけれど、とにかくその教えに従い、髪に幣帛を捧げ、祈りをささげつくした。けれどもいよいよ苦は増し、いっこうに癒えることはなかった。私が聞くことには、「先の代には多くの良き医者がいて、人々の病を治したそうだ。楡柎(ゆふ)、扁鵲(へんじやく)、華他(くわた)、奏の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隠居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちうけい)たちに至っては、皆これ世に居た良き医者で、治せない病気はなかった」と言うそうだ。 〔扁鵲は、姓は奏、字は越人といい、勃海郡(ぼつかいぐん)の人である。胸を開いて心臓を取り出し、もう一度置き、神薬を投入すると、患者は目覚めてのち平常の状態に戻った。華他は、字は元化、沛国(はいこく)の焦(せう)の地の人なである。病気が積み重なって体内に沈んでいる者がいたなら、腸をさいて病気を取り出し、縫って膏薬を塗った。四五日にして治ったという〕 これらの名医をいまから望んだとしても、無理であろう、しかしもし聖医や神薬にめぐり逢えるのならば、仰ぎ願うのは、内臓を切り開いて、百の病を探り出し、膏や肓の奥深きところまでたずね当て、〔肓は横隔膜のことで、心臓の下を膏という。これは治そうにも治せず、針も届かず、薬も効かない〕 病を起こす二児の逃げ隠れるところを見つけ出したい。〔晋の景公が病気になったことがあった、奏の医者の緩が診察して帰り、景公は鬼のために殺されるだろうと言った。そのことを指す〕 寿命がなくなり、その天寿をまっとうするのでさえ、なお哀しいことだ。〔聖人も賢者も、すべての生きる物は、誰もこの道を免れることは出来ない〕 ましてや、生きるべき年齢の半分にも至らずに、鬼のために不当にも殺され、まだ容姿も盛んな壮年に、病気のために、不当にも苦しめられる者のなんと悲しいことだ。この世にある大患の中で、これより大きな苦しみが他にあるだろうか。〔志恠記にいうことには、「広平県の前の大守、北海の徐玄方(じよげんはう)の娘が、年十八歳にして亡くなりその霊が憑馬子(ひようまし)という男の夢に現れて、『私の生きるべき年齢を見ると、八十余歳のはずです。それが妖しい鬼のために不当に殺されて、すでに四年が経ちました』と言った。結局この憑馬子に逢って、生き返ることが出来た」と言う。これは年若く鬼に苦しめられた例である。仏典に書かれていることには「瞻浮州(せんぷしう)の人の寿命は百二十歳」と言う。謹みて考えてみると、この百二十という数は必ずしもこれをを越えられないわけではない。それゆえ、寿延経(じゆえんきやう)には、「一人の僧がいて、名を難達(なんだつ)といった。命終る時になって、仏を拝みさらなる寿命を願ったところ、十八年生き延びた」と言う。ただ、善いことを行う者は天地とともに生きるもので。その長寿か夭折するかは業の報いのもたらすものであり、その業と報いの長短によって命は半分ともなるのである。いまだその寿命の命数にならずに、速くも死去してしまうのだ。それゆえ、半分にもならないという。任徴君(んちようくん)の言うことには、「病気は口から入る。それゆえ、りっぱな人間は飲食を節制する」と言う。これによって言えば、人が病気になるのは、必ずしも妖しき鬼のせいではない。そもそも、多くの医者の優れた説と、飲食を慎めという立派な教えと、知りながらも行ひ難き人間の俗情とのこの三つを、目に見て耳に聞くことすでに久しい。抱朴子(はうぼくし)が言うことには、「人はただ、その死ぬ日を知らないから哀しまないだけだ。もしほんとうに羽の生えた仙人になって寿命を伸ばす術を知ったなら、どんなことでも必ずそれをしようと思うだろう」と言った。これらによって見れば、よくわかる、私の病気は必ずや飲食の招いたもので、自分では治す術のないものだ、と〕
帛公畧説(はくこうりやくせつ)が言うことには、「つつしんで考え自らつとめると、あの長寿を得ることが出来る。生は貪欲に求めるがいい。死は畏れるべきものだ」と言う。天地の間の大徳を生と言う。ゆえに、死んだ人は生きている鼠(ねずみ)にも及ばない。王侯といえども一日息の根を絶ったならば、金を積むこと山の如くあったとしても、もはや富裕とはいえない。威勢の海の如くあったとしても、もはや誰も貴いとは思わないだろう。遊仙窟に言うことには、「黄泉の国にある人には、一銭の値打ちも無い」とい言う。孔子の言うことには、「天から授かって、変えることの出来ないものは形だという。天命によって定められ、求めることの出来ないものは寿命だ」と言う。〔鬼谷(きこく)先生の相人書(さうにんしよ)にこのことは見えている〕 ゆえに、知る、生の極めて貴く、命の至って重いことを。言おうにも言葉が見つからない。何をもってこの気持ちを言い表そう。思いめぐらそうにも思いがつづかない。何によってこの理を考えよう。考えてみれば、人間は賢者愚者の区別なく、昔から今に至るまで、ことごとくに嘆き繰り返してきた。歳月は競うように流れて、昼夜留まることがない。〔曽子の言うことには、「往きて帰らないのは年である」と言う。孔子がの川上にあって嘆いたのももまたこれである〕 老いと病とが誘い合うかのように、朝夕に私の身を侵して競っている。 一生の快楽はいまだ眼前に尽し切れないのに、 〔魏の文帝の時賢(じけん)を惜しめる詩に言うことには、「まだ西苑の夜の快楽も尽くさないのに、はやくも北望に葬られて塵となる」と言う〕 千年の愁い苦しみはまた私の背後に迫っている。〔古詩に言うことには、「人生は百年にも満たないのに、どうして千年の憂いを抱いたりなどしよう」言う〕 そもそもが生きとし生けるものは、皆限りある身を持っているにもかかわらず、無限の命を求める。それゆえに、道人や方士は自ら丹薬とその処方を解説した経を背負って、名山に入って薬を調合する者は、体調を整え精神を和らげて、それによって長生を得るのだ。抱朴子が言うところでは、「神農(じんのう)が言うことには『多くの病気が癒えずして、どうして長生きなどできるだろう』と言った」と言う。帛公がまた言うところでは、「生は好き物であり、死は悪しき物である」と言う。もし不幸にして長生きが出来ないのならば、生涯病気に患わないことをもって、大きな幸せとするべきであろうか。いま私は病気のために悩まされ、寝起きも思うようにできない。どのようにもする術を知らない。不幸の甚だしきものが、すべて私に集まっている。「人が願えば天も応ずる」と言う。もしこれが事実であれば、仰いで願うのは、すぐにでもこの病気を取り除いて、平生の幸せを得たい。鼠を持って喩えとしたのは、恥ずかしき事であった。〔すでに上に述べたとおりである〕
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この非常に長い文章は山上憶良が病に伏したわが身を顧みて書いたものです。
(ここでは読み下し文で紹介していますが、原文は漢文で記述されています)
筑前守の任を終えた山上憶良は天平四年ごろ都に帰京して翌年亡くなったようですが、筑前に居た頃より病を得ていたようで奈良の都に帰ってからそれが悪化したようですね。
この文章はそんな憶良が死の直前に書いたものでしょうか。

文章の冒頭ではまず、猟師や漁師を譬えに出して彼らのように「六斎(りくさい)」も気にせずに殺生を行うものが罪を受けないというのに、殺生もしていない自分がなぜに病を得て苦しまねばならないのかと自問しています。
(「六斎」は六斎日のことで、月に六日殺生を禁じた日のこと。)

ついで、初めて病を得てよりもう十余年も経っていることを嘆き、今年七十四歳にして頭髪はすでに白く、体力は衰え、さらには病まで得ている身体の辛さを訴えています。
その後、さまざまな古人や賢者の言葉を連ねて生の貴さと死の悲しさを語り、天が願いを叶えてくれるのならば病の無い平生の幸せを得たいとの望みを書いて文章を締めくくっているわけですが、まさに病の床に臥せっている憶良の辛さがその長文からにじみ出てくるような文章ですよね。

ただ、健康な者にはなかなか実感の湧かないものなのかも知れませんが、憶良の書いたこの文章をじっくりと読んでいると、病を患わず日常を暮らせるだけの幸せがいかに貴重なものであるのかがあらためて感じさせられるようなそんな気もします。
この山上憶良の最晩年の文章から、現代を生きるわれわれが学べることは意外に多いのではないでしょうか。


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万葉集巻五


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万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。
他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。

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