万葉集入門
日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)
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弓削皇子(ゆげのみこ)の吉野に遊(いでま)しし時の御歌一首
滝(たぎ)の上(うへ)の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常(つね)にあらむとわが思はなくに
巻三(二四二)
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滝の上の三船山にかかる雲もそうだが僕もまた常に絶えずにこの世にいられるとは思えないなあ。
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この歌は持統天皇の吉野行幸時に従駕した弓削皇子(ゆげのみこ)が、三船山にかかる雲を見て詠んだ一首。
時期的に見て巻一(一一一)の歌が詠まれた時の吉野行幸時と同じときのものでしょうか。
三船山(みふねやま)は宮滝離宮の南にある山です。
その「三船山にかかる雲もいつまでもそこに居ないように、僕もまた長くこの世にいられるとは思えないなあ」とのなんとも寂しげな一首ですが、この時期の弓削皇子はまだ二十代ぐらいの若さだったにもかかわらずこのような歌を詠んだのには何らかの予感があったのでしょう。
実際、弓削皇子はこの少し後に亡くなってしまうのです。
そのあまりに若い死ゆえに、弓削皇子の死には紀皇女との恋愛関係に絡んだ処刑説などが憶測されています
万葉集にも弓削皇子が紀皇女を想って詠んだ恋歌(巻二:一一九など参照)が四首(巻八の一首もか?)収録されていますが、じつは紀皇女は軽皇子の正妃であり、その正妃を奪ったために持統天皇の怒りを買い処刑されてしまったというものです。
また、それ以外にも弓削皇子の立場がかなり危ういものがあったことを想像させる事実がいくつか存在しています。
この時期、自分の孫である軽皇子を天皇にしたいと思っていた持統天皇にとって、弓削皇子やその同母兄の長皇子たち天武天皇の皇子の存在は油断のならないものでした。
事実、弓削皇子の死の少し前に、異母兄であった高市皇子も亡くなっているのですが、その高市皇子の後継者を決める会議の席で、弓削皇子が同母兄の長皇子を推そうと発言しようとしたのを葛野王(後の橘諸兄)が叱責して制し、後継者が軽皇子に決まったという出来事がありました。
このことからも持統天皇にとって弓削皇子とその同母兄の長皇子の存在はけっして快いものではなかったはずで、あるいはこの持統天皇の吉野行幸に弓削皇子を同行させたのも自らの監視下に置いておくためだったのではないかとも思われるのです。
まあ、紀皇女関連の話などにしても、紀皇女が軽皇子の正妃であったという記録自体がなく、暗殺説などはどれもあくまで後世の人々による憶測に過ぎないものではありますが…
弓削皇子自身、もともと病弱な身だったとも言われていますのであるいは自らの健康への不安がこのような予言めいた歌を詠ませたのかも知れませんね。
三船山と雲。
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万葉集巻三
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万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。
他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。
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