万葉集入門
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日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)

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俗(よ)の道の、仮(かり)に合ひ即ち離れ、去り易く留(とど)まり難(がた)きを悲しび嘆ける詩一首并せて序

竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、釈(しやく)・慈(じ)の示教(じけう)は 〔釈氏・慈氏を謂(い)ふ〕 先に三帰 〔仏法僧に帰依(きえ)するを謂ふ〕 五戒を開きて、法界を化(やは)し、〔一に殺生をせず、二に偸盗(とうたう)せず、三に邪婬(じやいん)せず、四に妄語(まうご)せず、五に飲酒(おんしゆ)せぬことを謂ふ〕 周・孔の垂訓(すいくん)は前(さき)に三綱 〔君臣・父子・夫婦を謂ふ〕 五教を張りて、邦国を済(すく)ふ。〔父は義に、母は慈に、兄は友に、弟は順に、子は孝なるを謂ふ〕 故(かれ)知る、引導は二つなれども悟(さとり)を得るは惟(これ)一つなるを。ただ、以(おもひみ)るに世に恒(つね)の質無し、所以(かれ)、陵と谷と更に変り、人に定まれる期(ご)無し、所以(かれ)、寿(じゆ)と夭(えう)と同(ひと)しからず。目を撃つの間に、百齢已(ももよすで)に尽き、臂(ひぢ)を申(の)ぶるの頃(ほど)に、千代(ちよ)も亦空し。旦(あした)には席上の主(あるじ)と作(な)れども、夕には泉下(せんか)の客と為る。白馬走り来(きた)り、黄泉(くわうせん)には何(いか)にか及(し)かむ。隴上(ろうじやう)の青き松は、空しく信剣を懸け、野中の白き楊(やなぎ)は、ただ悲風に吹かる。是(これ)に知る、世俗に本より隠遁(いんとん)の室(いへ)無く、原野には唯(ただ)長夜の台有(うてな)るのみなるを。先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖(あがな)ひて免るべき有らば、古人誰か価(あたひ)の金(くがね)無けむ。いまだ独(ひと)り在(ながら)へて、遂に世の終(をはり)を見る者(ひと)あるを聞かず。所以(かれ)、維摩大師(ゆいまだいし)も玉体を方丈に疾(や)ましめ、釈迦能仁(のうに)も金容(こんよう)を双樹(さうじゆ)に掩(おほ)ひたまへり。内教に曰はく、「黒闇の後(しりへ)に来るを欲(ねが)はずは、徳天の先に至るに入ること莫(な)かれ」といへり。〔徳天とは生なり。黒闇とは死なり。〕 故(かれ)知りぬ、生るれば必ず死あるを。死をもし願(ねが)はずば生まれぬに如(し)かず。況(いは)むや縦(よ)し始終の恒数(こうすう)を覚(さと)るとも、何そ存亡の大期(たいご)を慮(おもひはか)らむ。

俗道の変化(へんくわ)は猶(な)ほ目を撃(う)つが如く
人事の経紀(けいき)は臂(ひぢ)を申(の)ぶるが如し
空しく浮雲(ふうん)と大虚(たいきよ)を行き
心力共に尽きて寄る所なし


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俗道悲嘆の詩

ひとり考えてみると、釈・慈の示された教えは 〔釈・慈とは、釈迦と弥勒のことを言う〕 まず三帰 〔三帰とは、仏・法・僧の三宝を信じることを言う〕 五戒を開いて、仏法世界を導き、〔五戒とは、一に生き物を殺さないこと、二に盗みをしないこと、三にみだりに交わらないこと、四に嘘をつかないこと、五に飲酒をしないことを言う〕 周公と孔子の垂れた教えはすでに三綱 〔三綱とは、君臣・父子・夫婦のことわりを言う〕 五教を述べて、国家を救済している。〔五教とは、父は義を持ち、母は慈悲を持ち、兄は愛情を持ち、弟は素直さを持ち、子は孝行であることを言う〕 ゆえに知る、人間を導く理はこの仏教と儒教の二つだけれども結果として得られる悟はまさにおなじ一つのものだということを。ただ、考えてみるとこの世に恒久の存在などない、それゆえ、岡と谷とはたがいに変り、人にも定まった生涯などはない、ゆえに、寿を全うする者もあるし夭折する者もあって同じではない。まばたきの間に、百年の命もたちまちに尽き、臂を伸ばすほどの短い時間に、千年の時も空しく過ぎる。朝には現実の席上に姿を見かけても、夕べにはもう黄泉の世界への旅人となる。白馬のように歳月は走り来て、黄泉からの迎えからは逃れられない。故事に墓の上の青い松に、空しく信義の剣を懸けたという、野の中の白き柳は、ただ悲風に吹かる。これを見て知る、俗世にはもとより死から逃げられる家など無く、原野にはただ長夜の墓所があるだけだと。先の世の聖人はすでにこの世を去り、後の賢人もこの世に留ってはいない。もし金銭で死から逃れることが出来るのなら、古人の誰がお金を出さなかっただろう。ひとり生きながらえて、世の終りを見たという者を聞いたことがない。それゆえ、維摩大師もお体を方丈の室に病み臥せ、釈迦も御身を沙羅双樹に覆われて亡くなられたのだ。仏典に言うことには、「黒闇の死が背後から来るのを嫌うならば、生まれて来なければよい」とい言う。〔徳天とは生のことで。黒闇とは死のことである。〕 ゆえに知る、生れれば必ず死ぬということを。もし死を願わないのであれば生まれて来ないほうがよいのだ。ましてや自分の命の初めと終わりの定められた日数を知ったとしても、どのようにして命の終わる重大な最期の瞬間を知ることが出来るだろう。

世の存在が移り変わることはまばたきの間にも似て短く
人の一生の経過は臂を伸ばす間にも似て速い
むなしく浮雲のように大空を漂い
心も力も共に尽き果てて頼れるところがない
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この詩は作者名は記されていませんが、「沈痾自哀の文」に続いて山上憶良が病に伏したわが身を顧みて書いたものです。
先の「沈痾自哀の文」の原文が漢文での記述だったのに対して、こちらの「俗道悲嘆の詩」は漢詩(ここでは読み下し文で記述していますが)となっています。

詩の前に漢文の長い序が付けられており、釈迦や弥勒の仏教の教えと、周公や孔子の儒教の教えについて言及し、その仏教と儒教の二つの教える手段こそ違っているものの結果として得られる悟りは同じひとつのものだと語っています。
そしてこの世に恒久のものなど何ひとつないことをあらためて思い、仏典に「黒闇の死が背後から来るのを嫌うならば、生まれて来なければよい」との教えがあることを例にして、「生れれば必ず死ぬ。もし死を願わないのであれば生まれて来ないほうがよいのだ。」と、病や死から逃れようとする自身の心を反省しています。

最期に「ましてや自分の生きられる年数を知ったとしても、死の瞬間がいつ訪れるのかを知ることなどどうしてできるだろう」との言葉で締めくくっていますが、最期の瞬間まで生きられる限りは精一杯生きるしかないのだとの悟りとも諦めとも取れる複雑な心情が文章によく表れていますね。

漢詩のほうも序文の内容を要約したようなもので、世の存在の移り変わりの速さや人生の短さを嘆き、頼れるものも無い浮雲のような心細さを訴えたものとなっています。

基本的には「沈痾自哀の文」とおなじく、病を得た老いたわが身を嘆いた詩となっていますが、そんな自身に対する反省も感じられるところに繰り返しなされる思考の深化が伺えるに思えます。


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万葉集巻五


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万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。
他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。

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