万葉集入門
日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)
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敬(つつし)みて熊凝の為に其(そ)の志を述べたる歌に和へたる六首并せて序
大伴君熊凝は、肥後国益城(ひのみちのしりのくにましきの)郡の人なり。年十八にして、天平三年六月十七日に、相撲使某国司(すまひのつかひそれのくにのつかさ)官位姓名の従人(ともびと)と為(な)り、京都(みやこ)に参(まゐ)向ふ。天なるかも、幸(さき)くあらず、路に在りて疾(やまひ)を獲(え)、即ち安芸国佐伯(あきのくにさへきの)郡の高庭(たかば)の駅家(うまや)にして身故(みまか)りき。臨終(みまか)らむとする時に、長嘆息(なげ)きて曰はく「伝へ聞く『仮合(けがふ)の身は滅び易く、泡沫(はうまつ)の命は駐(とど)め難し』と。所以(かれ)、千聖も已(すで)に去り、百賢も留らず。況(いは)むや凡愚の微(いや)しき者(ひと)の、何(なに)そ能く逃れ避(さ)らむ。ただ、我が老いたる親並(とも)に庵室(いほり)に在(いま)す。我を待ちて日を過さば、おのづからに心を傷(いた)むる恨(うらみ)あらむ。我を望みて時に違(たが)はば、必ず明を喪(うしな)ふ泣(なげき)を致さむ。哀(かな)しきかも我が父、痛(いたま)しきかも我が母。一(ひとり)の身の死に向ふ途を患(うれ)へず、唯(ただ)し二(ふたり)の親の生(よ)に在(いま)す苦しみを悲しぶ。今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世にか覲(まみ)ゆるを得む」といへり。乃(すなは)ち歌六首を作りて死(みまか)りぬ。その歌に曰はく
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大伴君の熊凝は、肥後の国益城郡の人である。年十八歳にして、天平三年六月十七日に、相撲使いの某国司(官位姓名)の従人となって、奈良の都へと向かった。ところが天命であろうか、不幸にも、道の途中で病になり、そのまま安芸国佐伯郡の高庭の宿駅で亡くなってしまった。死の前に、長く嘆息して言うことには「伝え聞くところによると『仮の世の人間の身体は滅びやすく、水の泡沫のような命はとどめ難いものであるらしい』と。それゆえ、聖人も多くがすでに世を去り去り、賢人もまたこの世に留っていない。ましてや凡愚の賤しき者が、どうして死から逃れられよう。ただ、我が老いたる両親は故郷の庵室に居る。私の帰りを待って日を過せば、必ず心を傷ませることになって恨めしいことだ。私を待ち望んで時を過ごしたなら、必ずや明を失い泣くことになるだろう。哀しきかな我が父、痛しきかな我が母。私ひとりの身の死出の途ならば悲しくはないが、ただ両親が存命のまま苦しむのが悲しい。今日永遠に別れたなら、いつの世に逢うことが出来るだろう」と言った。。そして歌を六首作って亡くなった。その歌は…
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この一文は、大典麻田陽春(だいてんあさだのやす)が詠んだ先の巻五(八八四)の歌と巻五(八八五)の歌に、山上憶良が追和して詠んだ六首の歌の冒頭に付けられた序文です。
巻五(八八四)の歌などで麻田陽春(あさだのやす)は、亡くなった大伴君熊凝(おほとものきみくまこり)の死を悼んで二首の歌を詠いましたが、山上憶良もまた生前の大伴君熊凝と親交があったようですね。
そんな親交のあった熊凝の死を悼んで憶良が詠んだ六首の歌ですが、序文ではまず「大伴君の熊凝は、肥後の国益城郡の人である。」と熊凝のことを紹介しています。
そして、天平三年六月十七日に相撲使いの従人となって奈良の都へと向かい、その途上で病で亡くなった経緯が解説されています。
その後の文章では大伴君熊凝が病の床で語った言葉が語られていますが、これは実際には熊凝が語った言葉ではなく、巻五(八八四)の歌などで麻田陽春が熊凝になり切って歌を詠んだことを引き継いで、おなじように山上憶良が熊凝になり切って書いた文章のようです。
たしかに、『仮の世の人間の身体は滅びやすく、水の泡沫のような命はとどめ難いものであるらしい』などの大陸文化の影響を受けたような言葉は、あきらかに憶良の文体ですよね。
この序文ではさらに熊凝の立場に立って故郷の両親のことを詠い、自身の死を知って嘆き悲しむだろう両親のことを思ってその無念を伝えています。
そして熊凝が亡くなる直前に六首の歌を作ったと紹介し、巻五(八八六)以下の六首の歌(ただしこの六首も実際には山上憶良が大伴君熊凝になり切って詠んだもの)を続けています。
天覧相撲図(奈良県葛城市當麻の観光案内所:葛城市相撲館「けはや座」隣)。
節会相撲 武家相撲解説(奈良県葛城市當麻の葛城市相撲館「けはや座」)。
節会相撲は皇極天皇の元年に百済の使者をもてなすために宮廷の衛士を集めて相撲を取らせたことが史実としての始まりだそうです。
その後、聖武天皇の頃から毎年七夕祭りのおりに余興として相撲が行われるようになり、平安時代には宮廷の年中行事として全国に部領史を遣わせて健児を集め天覧相撲を催すことが恒例となりました。
節会相撲の本当の目的は国を守る強力な人材を選抜することにあり、健児を連れて来れなかった部領史は厳しく罰せられたそうです。
大相撲略史年表(奈良県葛城市當麻の葛城市相撲館「けはや座」)。
神亀五(七二八)年、聖武天皇は諸国の郡司に対して相撲人を貢進する旨勅命する(続日本紀)。
天平六(七三四)年、聖武天皇相撲戯をご覧になる(続日本紀)。天覧相撲の最初の記録。
題詞の序によると熊凝が相撲使いの某国司の従人となって、奈良の都へと向かったのは天平三年六月十七日とあるので、神亀五年以降もたびたび朝廷への相撲人の貢進は行われていたのでしょう。
奈良県葛城市當麻の葛城市相撲館「けはや座」。
葛城市當麻は、日本書紀にある相撲の起源、野見宿禰と闘った當麻蹴速の住んでいた地と云われています。
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万葉集巻五
万葉集書籍紹介(参考書籍)
万葉集(1)〜〜(4)&別冊万葉集辞典 中西進 (講談社文庫) 定価637円〜〜1145円(税別)
県立万葉文化舘名誉館長でもある中西進さんによる万葉集全四冊&別冊万葉集辞典です。
万葉集のほうは原文、読み下し訳、現代語訳、解説文が付けられていて、非常に参考になりこの4冊で一応、万葉集としては充分な内容になっています。
他の万葉集などでは読み下し訳のみで現代語訳がなかったりと、初心者の方には難しすぎる場合が多いですが、この万葉集ではそのようなこともありません。
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